読書と私。

読書が苦手だった。

 

文字から感情を読み取ることができず国語はいつも点数が低かった。

 

「下線部からこの時の筆者の考えを答えよ。」


こういった問いに関しては

「出題者のお前、筆者でもないくせに何偉そうに筆者面してんだよ。

お前に筆者の何が分かるんだ。生きてる内にそう言ってたのか筆者が。」

と思うことが山ほどあった。

 

そういことがあると学校の先生は「本を読む力をつけると良い」、塾の先生は「そんなの下線部の前述に答えが書いてあるだろ!!」と言ってくる。つくづく嫌気がさした。


そんなこともあり、読書なんてしても無駄。読書しなくたって人生に何の影響もないと決めつけていた。

 

しかし、半年ほど前のことだった。

ある資格の勉強のために参考書を買いにいった。

 

本屋なんてそんなに行くこともないので色んなコーナーを転々と回ってみた。

 

その中で一冊の本を見つけた。

 

「言い訳~関東芸人がなぜM-1で勝てないのか?~」 著 塙宣之 (ナイツ)


私はお笑いが好きなので、「関東芸人がなぜM-1で勝てないのか?」という

文字に惹かれ思わず買ってしまった。

 

M-1の歴史や関西、関東のお笑い文化の違い、事務所の大小など様々な視点から勝てない理由が書かれていてすごくおもしろかった。

その時、私は初めて誰かの頭の中を覗いたような気がした。

勿論、本を出しているのだから著者からしたら頭の中を見せているようなものだと思うのでそれは当たり前なのだけれど。

 

 

頭の中=その人の考え方

お笑いが好きな私。

 

そこから芸人さんの考えてることに興味を持った私は芸人さんの本に手を伸ばすようになった。

今いる芸人さんのテレビで見る姿と自叙伝やエッセイ本に書かれている文体がなんとなくリンクするので見やすさもあった。

そして何より、共感できることが見つかった瞬間が嬉しかった。

 

そこから約半年が経った。

 

「僕の人生には事件は起きない」ー 著 岩井勇気(ハライチ)
「天才はあきらめない」ー 著 山里亮太(南海キャンディーズ)

「芸人前夜」ー 著 中田敦彦(オリエンタルラジオ)

「夜が小沢をそそのかす」ー 著 小沢一敬(スピードワゴン)

「表参道のセレブ犬とカバーニャ要塞のセレブ犬」ー 著 若林正恭(オードリー)

「イルカも泳ぐわい」ー 著 加納愛子(Aマッソ)

「社会人大学人見知り学部卒業見込み」ー著 若林正恭(オードリー)

「僕がコントや演劇のために考えていること」ー著 小林賢太郎(元ラーメンズ/パフォーミングアーティスト)

「こばなしけんたろう」ー著 小林賢太郎(元ラーメンズ/パフォーミングアーティスト)

「革命のファンファーレ」ー著 西野亮廣(キングコング)

 

 

いつの間にか立て続けに本を読むようになっていた。

 

私は気づいた。

 

読書が苦手だから読書したくない。
そもそも読書ができない。
読書をしなくても人生に何の影響もない。

 

そういうことではなかった。
勝手なイメージに憑りつかれたまま「読書」を頭ごなしに否定してただけ。

興味が湧く自分に合った本を探そうとすることをただ諦めていただけ。

好きなこと、ものに関する本から読み始めることが大切なんだと。

そこから派生して色んな本に手を出すことがあるかもしれないということ。

 

自分はその一歩すら踏めていなかった。

 

今は違う。 

 

好きなものに関連している本に没頭している自分がそこにはいるから。

 

読書ができているのだ。

 

やっと感じることができた。

読書は無駄ではないということ。

様々な人の考え方、心情、知識を見ることのできるとても大切なツールなんだと。

 

初手から

 

「世の中のこと知っておかなきゃまずいかな・・・」

「こういうことは覚えておかないと・・・」

 

という気持ちが乗ってない本を無理矢理買ったとて到底続くはずがない。

興味が湧いたらまず手に取ることが大事。

(とはいえそこには人によって性格というものがあるので、少なからず私はそうなんだと言っておきたい。)

 

そして、自分が「お笑いが好き」ということを本を読んでいる時間再認識できることがなにより嬉しかった。

(「たかがそれくらいで何言ってんだよ。お笑い好きならQuick JapanとかOWARI Brosとかも読めよ!!」なんて言われるかもしれないけど。)

 

好きなことで選ぶ。

 

こんな一歩をやっと踏めた。

 

遅いか早いか。

 

そんなことはどうでもいい。

 

踏めたことを大切にしていきたい。

 

いつかはもっと世界を広げてみるよ。

 

知らんけど。

 

読書始めました。

 

 

 

 

 

 

切れ味と私。

私は自分の話をするのが些か苦手である。

 

何を話したらいいのか分からない。そもそも上手く話せない。かつ、そんな話を聞いても面白くないだろう。と勝手ながら思っているため率先して話を切り出すことができないのだ。

 

逆に人の話を聞くのは知らない事を知る事が出来るから好きだがそれも結局は話の上手いか下手かになってくる。

 

また、話の中で相槌を打ったり、ツッコミを入れたりするのも重要だと思っているので隙あらばそうなりたい。聞き手として上手くなりたいと思っている所はある。

 

私の大好きな水曜どうでしょう大泉洋なんて人の話を聞けばリターンエース。自ら話せばサービスエース。そこまで辿りつけなくてもそんな感じになりたいという憧れだけは頭にちらついている。

 

語彙力とその言葉の切れ味。

 

ないよりはあった方がいいと日々感じる。

 

会社で良く喋る先輩がいる。部署は違うが少人数の会社なので私はこの先輩とよく話をする。私の知らない事をよく知っているため知らないことを知る機会になるので私は話になんとなくついていく。フレンドリーな先輩でもあるため、前に聞いた話をするようなら「それ何億回も聞きました」「で、こうこうなったって話ですよね」と返せる。その点においては接しやすくツッコミやすい。

ただ、1つ言うならばお酒が入るとその話が深く入り過ぎてその話を延々とされ私でもついていけなくなる。

 

言葉だけで興味を持たせるというのは非常に難しいことであり、短くても長くてもいけないのだとその先輩の話を聞いてて痛感する。

 

そんなある日のこと、私とその先輩と後輩2人で中華料理屋に行った。後輩2人は部署も違うし仕事場も少し離れているのでその先輩とはあまり接点がないが、偶然が偶然を呼びその4人で食べに行くことになったのだ。

 

ビールを頼み、各々好きな料理を食べる。

今日の出来事から会社のあれこれを語る。

どんどん趣味や思い出の話に話が流れていくと酔って機嫌の良い先輩の趣味の話ターンになってしまった。

 

ー大丈夫かな。

 

私は1対1でこの先輩と呑みに行ったりすることがあるので慣れっ子だがこの子達がどこまでそれについて行けるのだろうと心配になった。

 

先輩は歌舞伎の話をし始めた。

 

私は芸人が好きだという話をした時に落語や歌舞伎の話で応酬されたことがあったため話の大体は聞いたことがあった。

後輩2人も最初は話を聞く姿勢に入っていて興味を持ちそうな体勢に入っていた。

先輩は酔って話すことに夢中になるとあまり人の顔色を見ない。話したいだけその話をするのだ。

 

開始5分。ー2人の姿勢は変わらない。

 

開始10分。ー1人はもう飽き始めている。もう1人は意外と相槌を打ちつつ話を聞いている。

 

開始15分。ー1人はもうすでに話を聞いていない。死んだ魚の目をしている。もう1人は変わらず話を聞いている。ちなみに私もここでノックアウトされた。

 

開始20分。ー先輩もよく口が回るものだと私は関心を覚える。1人はもう死んだ魚。そんな私もラジオのように聞き流し、壁に貼られたメニューを見ている。もう1人は変わらず話を聞いている。この時点でこの長い長い先輩の歌舞伎の話をしっかり聞いて相槌を打っていた後輩に私は心の中で敬礼していた。

 

そして、この歌舞伎の話を全てし終わった先輩は「これで歌舞伎観に行きたくなっただろ!?」と我々に言った。

 

ーここだ!!ここは1番親交のある私が「いやいや、話長過ぎて全然ですよ!!」とかとりあえず何かツッコミを入れなければ!!と思った矢先だった。

 

あれだけしっかりと話を聞いてた後輩が

 

「えーと…。道端にチケットが落ちてたら観に行くレベルですね。」

 

となんとも切れ味のあるツッコミを入れたのだ。

 

いや、これがツッコミなのかボケなのか分からない。ただ、私はそれを聞いた時に笑ってしまった。

 

「えー!!なんで!?」とあれだけ話したのにと目を丸く見開いていた。しかし、酔っ払っていることと全て話せたことが満足だったのか特に怒っている様子はなかった。さすがフレンドリー先輩。

 

つい笑ってしまった私だったが、私はこの1つの話に対して深く長く話すことは出来ないのでそういった面に対して「本当そこまでよく知ってますよね」と言うと先輩は嬉しそうだった。

 

私はその後輩とも先輩よりかは親交があり、時折その言葉の切れ味を目の当たりにすることがあったがここで飛び出すと思わなかった。

 

あんな切れ味どうやったら出すんだ。

 

店を出て後輩と別れた時、その後輩の後ろ姿が刀を腰に差した侍のように見えた。

 

一体、どこで刀を研いでいるのか。

 

先輩はきっと家に帰った時、胸に大きな傷があることに気づき倒れているかもしれない。

 

いつか、私も一太刀喰らうのだろうか。

 

うん。しっかり話せるようになろう。

手と私。

運動不足にはなりたくないものだ。

 

草野球をやっているが、試合の数もまちまちで月に1回、2回あるかないかである。

だから、少し動いておかないと草野球の時、動けず、走れずになってしまう。

そのため私は時間がある時は筋トレやランニングを行なっている。

 

このお盆期間中クーラーのある部屋でのんびりウーバーイーツな日々を過ごし全くそれを怠っていた私は意を決してランニングをしようと外に出たのであった。

 

ランニングをする時は必ず1つのアーティストを選びそのアーティストの曲を聴き続けている。なんとなく始めたその行為も今では定着し、むしろその為に走っているんではないかと思う程にもなった。

 

ちなみに今回はKing Gnu

白日で一躍人気者となったバンドである。

よし、Teenager Foreverを聴いて井口のように走ろう。

と心に決めた。

 

しかし、照り付ける太陽とアスファルトの熱はクーラーの部屋に慣れきった私の体を受け入れてはくれなかった。

たった2kmで私の体は悲鳴をあげた。いつもであれば2kmなんて淡々と走ってるのに。

足が止まってしまった。これは厳しい。

休んでランニングを繰り返すがいつものランニングのペースでは体がついていかない。

だが、このまま簡単に家に帰る訳にはいかない。

 

そう思い私はランニングを諦めウォーキングに切り替えた。

動いてなかった分、動いてなかった分。

頑張れ体。

と自分自身を鼓舞しながら歩く。

 

いつもとは違うエリアだったので新鮮な気持ちで歩くことができた。携帯で目標を有名スポットにしそこまで頑張って歩くことにした。その距離は7km(先程の2kmを含む)。折り返しも考えると合計で14km程だ。

 

辛いとかはいつの間にか頭から消え、そのスポットを目指すということ、14kmを歩くということ集中した。

 

コンビニに何度も入り水を買って飲み干しては歩く。

 

折り返しも過ぎた14km付近で私は体の異変に気付いた。

 

手が異様に浮腫んでいるのである。

なんだこれは。いつから私の手はこんなにもクリームパンのようにパンパンになっていたのだ。しかも、中身はクリームというよりは茹でた鳥のササミのように固く感じる。他に体に違和感もない。ウォーキングに変更してから疲れも思っていた程ではなかった。ただ、ただ、指がパンパンだったのだ。

 

ギターの練習のせいで指が太くなったんだきっと。とその時はなんとなくスルーしまった。

 

指がパンパンのままゴールの自宅へ着いた。

時間と共にパンパンの指は元通りになった。

なんだったんだろう。と思いつつ、翌日は1日中頭痛が酷く災難だった。

 

運動不足は解消されたがその後に悩まされた事を面白いと思い会社の先輩に陽気に「この前手がクリームパンみたいに!!」と話した翌日の今日。

 

朝の情報番組がこの時期の運動について取り上げていたのを偶然見た。

「ランニングやジョギング、ウォーキングなどする方は水中毒に気をつけてください。」

 

ー はて?水中毒とはなんぞや。

 

「運動して水だけを取りすぎると低ナトリウム血症になり、疲労感や頭痛、目眩、浮腫など体に変化が起こります。」

 

ー そういえばあの時はずっと水しか飲んでなかったなー。だからかー。 

 

「重症の場合は死に至ります。」

 

ー ………。

 

「皆さんその予防には…」

 

私は絶句した。朝からそれはもう絶句した。

つまり、そのまま歩き続けていたら大変な事態になっていたということである。

体は強い方で風邪などもあまりひいたことのない私であったがこればかりは危険な状態を体が教えてくれていたんだと気づけてあげられなかった自分を責めた。

 

 

ちなみに翌日の頭痛はクーラーの効き過ぎた部屋にいたせいだ。

クーラー病である。

 

 

暑い夏。

水中毒とクーラー病。

 

この時期に陥りやすい症状にあるあるのようになってしまった。

 

運動不足にはなりたくないが、TPOを間違えて帰らなぬ人にはなりたくない。

 

クーラーの効いた部屋には居たいが、1日頭痛に悩まされたくない。

 

皆さんもこの時期の飲料水やクーラーの使用には気をつけて。

 

 

ギターと私。

雨はなぜ降るのだろう。

 

環境や自然の科学をしっかりと勉強していればその答えはすぐに出る。

きっと小学校の頃、先生が教えてくれていたのかもしれない。

でも、小学校の記憶なんて友達と遊んだことぐらいしかない。

ましてや、中学高校大学でなんてスポーツとサークルの記憶しかない。

 

調べれば出てくるだろうが知らないままでいた方が「自然の不思議」「きっと神様がトイレでもしてるんだろう」という言葉で面白おかしくできる。

 

そんなことはどうでもいい。

 

私はギターを弾くのが趣味である。ギターといってもアコースティックギターだ。まだまだ下手だが、上手く弾けた時の喜びは計り知れないものがある。スタジオを借りて個人で練習をするわけだが、人見知りな私は誰かを誘ってなど尚更できない。

今日も行きだけで汗をびっしょりかきながらスタジオを借りて練習をする。

 

今日一つ覚えたことは

「練習期間を空け過ぎてはいけない」

ということ。

 

空け過ぎると感覚もやってきたことも思い出すまでに時間がかかってしまうからである。

空く期間が短ければ短いだけその感覚も短くなり次のステップに行き易いのだ。

まぁ勝手な考えではあるが。

積み重ねであるということにもう何十回もスタジオに行って気づいたのは今かよと思いつつもこれは私にとっての成長だと抗う。

 

そんな訳で練習も終え、会計を済ましていると窓の外は豪雨。

 

今日そうなると天気予報士はいっていただろうか。私は今朝テレビを観ていない。

これはミスだ。

 

外に出ると雨は横殴りで、雷鳴が轟く。

この雨は天気の子で見たことある。

誰かビルの屋上で願って晴れにしてくれないだろうか。と私は願う。

なぜなら、ギターを濡らしたくないからだ。

優柔不断な私が買うか買わないか迷い続けて買ったアコースティックギターだ。絶対に濡らしたくない。ゲリラ豪雨だから止むまで待とう。

と決意する。

 

しかし、一向に止まない。

どうする私。傘を買うか?隣はコンビニだ。

しかし、ここで傘を買うと家のビニール傘が増えてしまう。私が寝ている間に家の傘達がようこそ我が家へと今日買った傘の歓迎会を開くのだろう。しかし、君を使うのは今日以外次一体いつになる。君はきっと使われないまま最終的に「あー俺は何の為に傘に生まれてきたんだ」と廃れてしまうだろう。しかし、このまま濡れて帰ったら、夢でギターに殴られると私は思った。

 

どうする私。ネバヤンを聞いて気を紛らわしてる場合ではない。このままあと何分待つ?

一度コンビニに入り、考える。

外を見る。

まだ降っている。

一度出て、またスタジオの入り口前に行く。

まだ降っている。

 

そして、運命の選択をする。

 

コンビニに入り70cmのビニール傘に手をかける。ギターを守って帰ることを選択したのだ。偉いぞ私。よくやった私。

 

帰る前にカフェに寄りちょっと本を読んで帰ろう。

カフェまではそう遠くはない。コンビニから7分ぐらいだ。

 

どうだ。ギターは守られて嬉しそうじゃないか。後ろに子供を背負っている方々の気持ちに勝手に親近感を覚える。

 

カフェに入りアイスコーヒーを頼み、席に着く。

 

カフェから見える道路で傘を差す人はもういない。コンビニで、スタジオの入り口であと何分か待てば傘を買わずに帰れたのだ。

 

しかし、意外と心は晴れやかである。

 

さて、本を読もう。

 

 

 

 

 

トイレと私。

今日は暑い。しこたま暑い。

 

色々と重なって本来ならお盆に入るはずだった今日も会社へ行かなければならない。

 

朝起きるがエアコンの効いた部屋のせいで暑さと向き合うことができない。

 

仕事にはほぼ普段着で出ているわけだが最近では大人っぽくみられたい…。社会人ってスーツとか着るのが普通なのかな…。と思うことが多いのでじゃあオフィスカジュアルを目指そうと会社で1人企んでいるわけだが今日はそうはいかない。

 

暑さに負けた。

 

半ズボンを取り出し、適当に合わせた服とニューバランスの靴を履いて行く。

結局、前と変わらない。

 

でも、午前勤務だし午後はそのまま出かけられるから良い。プラスに捉えよう。

と言い訳をしながら必死にもがく。

そして、会社までの道のりで見かけるこの暑さでもスーツで働く方々に心の中で最敬礼をする。

 

会社に着いてやることはいつも通りである。

いつも通りをこなすことが私の作業において重要なことなのである。そんないつも通りの作業を終え、いざ買い物へ。

 

マスクと顔が一体化しているんじゃないかと思うほど汗っかきな私は必死に冷房の効いた場所を探す。

 

ランニング用の靴やウェアを買おうとスポーツ用品店に来たものの案の定優柔不断が働き、買うのやめてしまった。

そして、帰ろう。と思った時、トイレに行きたくなった。

これはお昼に食べた油そば中盛りだ。

つまり、食べ過ぎた。

言わずもがな大きい方である。

 

遅ればせながら本題はここからである。

スポーツ用品店の看板に指示されたトイレへ向った。

大体、外のトイレの大用なんていうのは誰かが入ってることの方が多い。そして、そこのトイレは小便器が2つ、大便器が1つだった。

 

しかし、誰も居ない。

ラッキーだ。早速さと便所に入り、事を済ます。(ここでいう「事を済ます。」は如何わしい行為という訳ではない。)

 

トイレットペーパーを回している時だった。

外から凄い息の荒い人が入ってきた。

漏れるかもしれなかったから走ってきたのだろう。便所は私が使用中だから早くでてあげなければと思った。

しかし、用を足している音はせず息が荒い彼の声だけがする。

 

(おかしい。何かがおかしい。)

 

私はそう思いながらもゆっくりとトイレットペーパーを回す。

 

すると、息の荒い彼は荒い声と同時に若干喘いでいるのではとも取れる声を出すのであった。

 

(おいおい。まさかこんな所で如何わしい何かをしてるんじゃないか!?勘弁してくれ…。)

 

私はそう思いながらもゆっくりとトイレットペーパーを回す。

 

しまいには気持ち良い…。と言う始末。

 

(これは確定か?如何わしい行為確定か?違うのか?ひぇ…。)

 

私はそう思いながらもゆっくりとトイレットペーパーを回す。

 

しばらくすると水の音がする。手洗いの水だ。

しかし、彼はまだ息が荒い。

 

その時には私はもう全て事を済ませていた。しかし、ここで流して音をたててたらなんか殺されるんじゃないかと思ってしまいただ立ち尽くし、密室の空間で彼が出ていくのを私に流してもらえないブツと待った。

 

…長い。いくらなんでも長い。

彼がこのトイレに入ってきたのは私が大をし終えてトイレットペーパーを回すという後半でもうかれこれ5分以上は経過している。

 

(何をしているかは分からないが早く出てってくれ…。)

 

そう思いながら立ち尽くす私と中々流してもらえないブツ。

 

思いとは裏腹に聞こえた声。

どうやら今度は気性が荒い。

何かぶつくさと言っているようだが声は聞こえなくなった。

 

 

そして、ようやくトイレに静寂が戻った。

 

トイレの入り口のドアが引き戸だったので出ていったかが音では判断できないが声が聞こえなくなったので勇気を出して流す。

 

さよならブツ。

ちょっとの時間だったけど相棒だったよ。

君は。

 

そっと鍵を開け出てみると彼はいない。

そして、手洗い場を使おうと見てみると水が床にも飛び散りびしょびしょであった。

 

何が起きたかは分からないが事故現場だ。

匂う!!匂うぞ!!これは事件だ。

私のブツより匂うな…。

 

外に出てあたりを見回すがもう彼は当然いない。

 

暑い夏に少し体が冷めた。

 

汗はひかない。

 

心だけ。

 

 

 

ワニくん。

君と僕の挽歌

君と僕の挽歌



いつ何が起こるか分からない。だからこそ、ささやかな日常も大事に、大切に生きていかなくちゃいけないんだと。

「100日後に死ぬワニ」のワニくんは教えてくれた。

 

その後、色々と怒涛のプロモーションがあり、批判を多く喰らう訳だが、

個人的にはあって当たり前な炎上ではあるかなと少なからず思う。

 

「金儲けするな」という訳ではない。

ワニくんの100日目の死を受け入れて飲み込むまでの「時間」が欲しかっただけである。

「あの膨大な報告セット」を目の前に急に出されてもこちらが飲み込むには時間がかかるのだ。

 例えイラストという世界の中だとしてもワニくんの死は紛れもない事実であり、それぞれの読者がこの100日の物語を改めてどう感じたか、考えるか、つまりは「読者をそっとしておく」ような「期間」が必要だったのではないかと思う。

 

また、この一連の流れに疑いの目を持ち、悲痛な言葉を投げたのはワニくんへの深い思いが読者それぞれにきっとあったからである。

 

それでもどこかやるせない。

 

特に私が違和感を持ったのはワニくん追悼グッズのPOPでワニくんが頭に輪っか、翼を生やしている姿である。

どうも釈然としない。ワニくんの死が急に軽く見えてしまうような。

 

私が寄り添ってみてきた感情とのズレを感じる瞬間であった。

 

無論、作者の方にも色んなバックグラウンドがあって作品を作ったことは重々承知である。100日の物語を見終わった後のあの感情も嘘ではない。

 

しかし、モノのタイミングを間違えればその瞬間的な感情は矛先は違えどワニくんの「死」への悲しみから180度変わり、「プロモーション」への怒りになるのも無理はない。ましてやあそこまで全てモノが揃っていると不自然であり、余計物語で感じた気持ちに憤りを覚えてしまう。

 

そのプロモーションも含めてすっきり終わらなかったことだけが残念だ。

 

 

88日目

 

「死んだらあげるよ」

 

「・・・・・・冗談でもそれは言うなよ」

 

「・・・・ごめん」

 

「うむ」

 

ようこそ。147分の奇妙な祝祭へ。

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私とワルツを

私とワルツを


優しいものはとても怖いから

泣いてしまう貴方は優しいから

誰にも傷が付かないようにと

ひとりでなんて踊らないで

どうか私とワルツを


ミッドサマー

 2020年公開

アリ・アスター監督

フローレンス・ピュー主演

 

 

〜あらすじ〜

とある冬の日、不慮の事故により家族を失った1人の女性ダニー。

家族を失った事で精神的に不安定な状態の彼女だったが、翌年の夏に彼氏であるクリスチャンらと共に彼の大学の友人ペレの故郷「ボルガ村」で行われる90年に1度の夏至祭へと赴くこととなる。

自然に溢れた風景や村人のおもてなしに魅了されていく彼女達だったが、

ある事をきっかけに事態は一変する。

さぁ、147分の祝祭の始まりだ。

 

 

〜感想〜

 夏至祭に行くまでの過程がすごく長いと感じてしまったのが最初の印象。

 

ただ!!

 

夏至祭が行われるボルガ村に入ってからの出来事や描写を考えると、むしろ村に費やす時間をあれ以上長くしてしまっていたら私の頭が本当おかしくなっていてたかもしれない。

 

村に入るまでは室内にいる場面が多くどんよりとしていた映像も村に向かうにつれ、輝度と色合いを増し、視覚でもその状況の変化を魅せてきた。

そして、その明るさが村人達の言動をより不気味にしているようにも思えた。

 

また、起きた出来事の処理が追いつかないまま先へ淡々と進み映画の経過時間も映画の中の時間軸も分からなくなってしまった私は、ただ目の前で起きた出来事を呆然と見ることしかできなくなってしまった。(もうなんか恋愛事情とかどうでも良くなっちゃう。笑)

 

見入ったという表現よりは見ざるを得ない状況に無理やりさせられたと私は思っている。(好きとか嫌いとかではなく。)

 

良い意味でこんな映画よく作れるなと感じた。

 

当たり前だと思っていることはある種当たり前ではないというこの心理を極限にするとこんな村になるのかもしれないし、本当に遠いどこかの村ではあるのかもしれない。

 

正直、あまり心の弱い方にはお勧めはしません。

 

あー、日本に生まれて良かった!!f:id:sunontopofthestone:20200309114005j:plain